大阪高等裁判所 昭和36年(ネ)1511号 判決 1963年4月11日
控訴人 原告 株式会社斎藤組破産管財人 尾埜善司
被控訴人 被告 株式会社大和銀行
訴訟代理人 佐藤武夫 外二名
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴人は「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人に対し金一五万円およびこれに対する昭和三三年一〇月一六日から右支払いずみまで年五分の割合いによる金員を支払え。訴訟費用は第一、二番とも被控訴人の負担とする。」との判決を、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述は、次に記載するほか、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。
一 被控訴代理人の主張
(1) 本件消費貸借債権の釈明
被控訴銀行は破産者株式会社斎藤組に対し
貸金元金 一五万円現金、但し貸出日より弁済期日までの利息を差し引きその差額を渡した。しかしこれは一旦一五万円を渡し改めて前払利息を受け取る手数を省略したまでであり、結局一五万円を交付したことになる。
貸出日 昭和三二年二月二二日
弁済期 同年五月二四日
利息 日歩百円につき二銭六厘、たゞし貸出日より弁済期までの分割払い。
保証人 斎藤正一(斎藤組社長)
担保 (イ) 破産者斎藤組の二万円、五万円、一五万円の三口の大和定期預金(ただし、貸出しの一五日後の昭和三二年三月九日に差し入れたもの)
(ロ) 約束手形一通(金額一五万円、支払期日昭和三二年五月二四日、支払場所三和銀行桜川支店振出人大聯木材株式会社、受取人兼裏書人株式会社斎藤組、被裏書人大和銀行振出日昭和三二年二月二二日、振出地大阪市)
とする金銭消費貸借上の債権を有していた。しかしながら被控訴人の帳簿上は、手形貸付の処理によらず、手形割引の処理をした。
被控訴銀行の帳簿上の処理いかんにかかわらず、昭和三二年二月二二日斎藤組に交付した一五万円は消費貸借によるものである。斎藤組は本件手形で金を貸してほしいと申し出で、被控訴銀行も斎藤組の信用を対照とし、これを援助する目的で貸金の意思で金銭を交付した。もし期日前でも弁済の申出でがあれば弁済金を受領して手形を依頼人に返還する意思であつた。斎藤組からは本件手形を買つてくれとか割り引いてくれとの申し出ではなかつたし、被控訴人からも売買とか割引とかの表現をしたことはない。
乙第二号証の手形取引約定書第二条には「手形貸付又は手形割引により貴行の所持する手形については貴行に対して手形上の義務を負担するのはもちろん、金銭貸借上の債務もあわせ負担します」とある。従前の手形取引約定書についての昭和二九年五月一九日改正によつて加えられた新条項である。手形割引と称しても取引先が商業手形(第三者振出依頼人裏書)を銀行に持参して融資を依頼するときの実際は、ほとんどといつてもいい位借入れの申入れであり、被控訴銀行では商業手形による貸金については通常手形割引と称することがあるが、事実上は金銭の貸与であるから、帳簿上の処理は手形割引の形類(科目商業手形)を取るけれども、消費貸借であるとの考えから新条項が生れたのである。被控訴銀行の帳簿上の処理は銀行局に対する関係もあつて商業手形なる科目によつているが手形割引ではなく消費貸借である。
(2) 仮定抗弁 手形買戻請求権による相殺
仮に被控訴銀行主張の消費貸借が認められず、一五万円の交付が手形売買代金であつたとしても、被控訴銀行は破産者斎藤組に対し本件手形について買戻請求権を有していたから昭和三二年四月八日買戻請求をなし、相殺権の行使として又は合意によつて元金一五万円の定期預金債務と相殺した。
手形買戻請求権は手形支払人の不履行を条件として、銀行が割引依頼人に対し買戻しの請求をなすことにより効力を発生する割引対価の返還債権である。その発生原因は契約又は事実たる慣習に基づくが、割引のとき(昭和三二年二月二二日)にすでに発生しているから、被控訴人が支払停止を知つた日(同年四月八日)以前に取得した債権というべく破産法第一〇四条第三号本文の相殺禁止は適用されない。仮に手形支払人が不履行をしたときに債権を取得したと解しても、その原因は割引のときにあり、すなわち支払停止を知つたときより前に生じた原因に基づくから、同条同号但書により相殺は適法というべきである。
(3) 破産法第七二条第二号による否認について
仮に昭和三二年四月八日に被控訴人のした相殺は無効であるとしても、その後破産宣告の日(昭和三二年一一月六日)において債権債務が対立していたから、本訴(昭和三七年七月九日の口頭弁論期日)において相殺の意思表示をなす。
二、控訴人の主張
(1) 手形割引は手形の売買である。被控訴人が手形割引として帳簿上処理していることは、手形割引の実体の一部分である。取引約定書に形式的文言を置くことによつて手形割引の性格的要素が入れ替わり又は手形割引と消費貸借の成立とが混合されることはありえない。
(2) 手形買戻請求権による相殺の仮定抗弁について
被控訴銀行の右仮定抗弁事実中、被控訴銀行が昭和三二年四月八日手形買戻請求権を行使し、かつ本件元金一五万円の定期預金債権と買戻代金債権とを相殺したことは認めるが、その余の事実は否認する。
手形買戻請求権は停止条件付債権ではない。乙第二号証の第八条のごとく、買戻事由として銀行の裁量の余地が多く、かつ極く漠然たる事由が列挙されている場合、これを停止条件と解することは法律関係の安定性を害し許されない。
手形買戻請求権は手形外の権利である。被控訴銀行は、本件相殺は昭和三二年二月二二日本件手形の裏書取得がなされたから、支払停止を知る以前に生じた破産債権取得原因に基づくと主張するが、手形買戻請求権が手形外の権利である以上右主張は失当である。
破産法第一〇四条第三号但書は、取引の安全を保護し思い設けぬ事態の発生による一債権者の権利喪失を救済するための規定であつて、まさに右事態の発生を予測前提して設定された法律関係を包含すべからざること当然である。右条項が支払停止を知つて破産債権を取得した場合の相殺を禁止した理由は、要するに、破産者の経済的危機の発生を前提事実としてこれに即応して自働債権を発生せしめたうえ、これをもつて破産債権と相殺することにより破産債務を免れ、他方優先弁済の効果をうることは総債権者間の公平に反するからである。右の場合同条が但書において支払停止を知る以前に生じた債権発生原因に基づくときを除外している理由は、もつぱら原因と取得との時間的なづれという因子により、偶発的に支払停止後これを知つて取得することになる場合は、同条の趣旨からして除外せらるべきだからである。すなわち右但書の解釈については、原因なる概念が債権取得と密着的に限定構成せらるべきこと、破産者の経済的危機の発生が債権取得の前提事実となつておらず偶然的因子であることが必須の要件となる。したがつて当事者間において、右経済的危機の発生を前提事実として自働債権を取得すべきことをあらかじめ特約するがごときは、その特約が仮に形式的に「原因」たりうる場合においても、とうてい右但書に該当しない。破産法における相殺禁止規定はとくに厳格に解釈せらるべきはいうまでもない。
本件にいわゆる特約はあくまで当事者間の私的契約であり、債権関係が当事者間の法律関係であるかぎりにおいて、債権取得原因たりうる場合があるとしても、対第三者の関係においてこれを認むべきかいなかは別問題である。右特約は対第三者関係でももつとも公的かつ一般的な破産手続においては通用しない。さらに右特約は結局実質的に銀行預金をして担保的機能を営ましめることを目的とするものであるから、担保権の対第三者的明確化の要請からしても許されない。ところで「特約」は当事者間の法律関係と考えても、買戻債権取得の原因とはいいえない。右債権は買戻請求権の行使とこれに伴う法律関係を原因として取得されるものである。手形割引による法律関係が原因とはいえない。
(3) 破産法第七二条第二号による否認
破産者斎藤組が昭和三二年三月九日本件元金一五万円の定期預金を外二口の定期預金とともに被控訴銀行に対する債務の担保に差し入れた事実は否認する。仮に担保に差し入れたとしても、控訴人は破産法第七二条第二号に該当するものとして否認権を行使する。
証拠関係
証拠の提出援用認否は、被控訴代理人が乙第七号証の一、二、三を提出し、控訴人が「乙第七号証の一、二二、三はその成立を認める。乙第一号証の成立は否認するが、その記名印と印影の成立は認める。」と述べたほか、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。
理由
一、次の事実は当事者間に争いがない
布施市足代二丁目二三番地株式会社斎藤組(以下破産会社と称する)は大阪地方裁判所昭和三二年(フ)第一五五号破産申立事件において昭和三二年一一月六日破産宣告を受け、同時に控訴人は破産管財人に選任された。
破産会社は昭和三一年一〇月一五日金一五万円を定期預金として被控訴人に預け入れた。
なお弁論の全趣旨によれば右定期預金の期日は昭和三二年四月一五日である。
二、手形貸付金を自働債権とする相殺の抗弁について
被控訴銀行は破産会社に対し昭和三二年二月二二日貸し付けた金一五万円のすでに弁済期の到来した貸金債権を有するとして、昭和三二年四月八日本件元金一五万円の定期預金債権と相殺する旨の意思表示をしたことは当事者間に争いがない。
しかしながら、本件の全証拠によつても右自働債権の存在を認めることができない。かえつて、成立に争いのない乙第二号証、原審での証人斎藤イクヱの証言(第一、二回)、同伊東勝の証言の一部に弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。すなわち破産会社は昭和三一年一〇月被控訴銀行と手形取引約定を結び手形割引による金融を受けてきた。破産会社は他の銀行からは破産会社振出しの手形を差し入れて手形貸付を受けたことがあつたが、被控訴銀行から手形貸付を受けたことはなかつた。破産会社は事業資金を得るため、昭和三二年二月一六日大聯木材株式会社振出しにかゝる金額一五万円、支払期日昭和三二年五月二四日、支払地大阪市、支払場所三和銀行桜川支店、受取人破産会社とする約束手形一通の交付を受け、被控訴銀行に割引方を依頼した。被控訴銀行はこれに応じ、昭和三二年二月二二日右手形の裏書譲渡を受けるとともに手形金額から満期日までの日歩二銭六厘の割引料を控除した割引金を交付し、帳簿上も手形割引の形類(科目商業手形)として処理した。
もつとも前記乙第二号証すなわち、破産会社が被控訴銀行と手形取引をなすにあたり差し入れた手形取引約定書の第二条には「手形貸付又は手形割引により貴行の所持する手形については、当方は、貴行に対して、手形上の義務を負担するのはもちろん、金銭貸借上の債務をも、あわせ負担します。」との条項が定められている。しかしながら右条項は手形貸付に関するかぎり、当然の事理であつて、なんら異とするに足りないが、手形割引において、手形上の義務のほかに金銭貸借上の債務をも負担することを約定させたとて、法律上は全く無意味にしてなんの効力をも生じないものというべきである。けだし手形割引と手形貸付とは相い並んでいずれも一般に銀行が通常行なう、与信業務に属し(銀行法第一条第一号)、ともに手形を手段とする融資の方法であつて、その経済的効用においては格別の差異は存しない。ところで手形割引の基本的性格は割引依頼人から満期未到来の手形上の権利の譲渡を受け、その代価として満期日までの利息その他の費用すなわち割引料を差し引いた金額(それは当該手形の現在の評価額に相当する。割引料は値引きではない。)を支払う、手形の売買であつて、手形貸付、すなわち借主が片務的に金銭消費貸借上の債務を負い、その債務の履行確保ないし担保のために手形が交付されるのとは、法律上全く性質効果を異にする別個のものである。前者にあつては、手形の交付は割引金の受領と対価的交換的になされる関係にあり、それが履行された後は、手形上の債権債務は成立存続することになるが、手形の原因関係上の債権債務は消滅する。これに反し、後者にあつては、原因関係上の借受金員返還債務が基底に存し、これに沿う趣旨のもとに手形の交付がなされるもので、貸付金員の授受と手形の交付が終了した後でも、手形上の債務のほかに、必ず原因関係上の借受金返還の債務が存在するのである。そうだとすれば、当事者間の約定によつて、手形割引を手形貸付に変質転換させることを試み、あるいは割引金の交付に対価的効用を果さしめつつ消費貸借上の貸付金たる性能をも帯有するがごとき二重構造を与えることは法律上不可能であつて許されないとしなければならない。主たる手形債務者たる他人の支払を予定したのが手形割引であるのに、その他人をさしおいて自分が当然支払うことを予定したのでは、まさに割引の自己否定といいえよう(一般に割引として扱われるのは、第三者振出しの約束手形もしくは第三者引受けの為替手形であるが、観念上は割引依頼人が主たる手形債務者であつても差し支えない。この場合も証券に化体された手形上の権利を割引によつて譲渡し、その金銭化だけが予定にあつたのに、それとは別個の立場上、支払義務を当然負担するとすれば、理論的にはやはり割引の自己否定であろう。)。銀行取引約定は、経済的優位に立つ銀行が、銀行業務の安全と円滑な運営のために、高度の自己防衛意識のもとに、顧客側には契約条件選択の余地をほとんど与えることなく、それを全体的に容認するかしないかの自由しか許さないのであるから、いきおい附合契約化し内容は一方的片務性の傾向を帯びるのも、ある程度容認せざるをえないのであるが、それだけに、約款の拘束力に絶対性を認めて銀行の利益の偏重に走ることはできないのであつて、相手方の利害をも考慮し、もしその内容にして客観的合理性と妥当性を有しないものがあれば、排除されなければならない。大量反覆的に行なわれて、その内容が、合理的に定型化されて一つの客観的実在となつている手形取引(手形割引)を一片の約定書の文言によつて変質変容させることは、約款に要求される合理性妥当性の限界を超え、また約款の目的論的解釈の範囲を超えるものであつて許されない。
以上により、手形貸付金返還債権を自働債権とする相殺権の行使もしくは相殺の合意のあつた旨の抗弁は採用できない。
三、手形買戻請求権を自働債権とする相殺の抗弁について、破産会社が昭和三二年三月二日支払停止をしたことおよび被控訴銀行は右支払停止を知つた後である昭和三二年四月八日本件割引手形について買戻請求をなし、かつ元金一五万円の本件定期預金債務と右買戻代金債権とを相殺する旨の意思表示をしたことは当事者間に争いがない。ここでは手形買戻請求権の法律上の性質いかん、それを自働債権とする相殺と破産法第一〇四条の相殺禁止規定の適用の有無が考察されるべき主たる問題点である。
(一) 手形買戻請求権の実体とその法律上の性質
成立に争いのない乙第二号証、第七号証の一、二、三、甲第一ないし第七号証の各一、二、第八号証の一、二、三、第九号証の一、二に弁論の全趣旨を総合して判断考究すると、割引手形買戻請求権はおよそ次のごときものであると判定することができる。
手形買戻請求権は、割引手形について銀行が権利保全の方法としてこれを有するものであり、手形割引をするに当つて顧客との間に結ぶ附随契約としての特約または事実たる慣習に基づいて手形割引のときに成立する。これに二種の区別がある。一つは、当該割引手形が不渡りになつた場合における当該手形を目的とする買戻請求であつて、この場合には銀行は当然に割引依頼人に対し不渡りとなつた当該手形面記載の金額に満期の翌日から買戻しの日までの割引料と同率の利息を加算した金額の支払いを請求しうるもので、その支払いと引換えに銀行は手形を割引依頼人に交付する義務を負うのである。他の一つは、割引依頼人に信用悪化の事態の発生した場合に関する期限未到来の割引手形を目的とする買戻請求である。すなわち割引依頼人に支払停止、他よりの仮差押えまたは差押え、手形交換所の取引停止処分、当該銀行に対する債務の履行遅滞等一定の信用悪化の事由が生じたとき、満期未到来の割引手形について生ずるもので、この場合には、右事由発生によつて当然に買戻代金支払義務が生ずるのではなく、手形の良否その事情に即応して銀行に選択の余地が認められ、銀行が買戻請求の意思を表示することによつて、その特定の手形について割引依頼人に買戻義務が生じ、銀行は割引依頼人に対し当該手形面記載の金額の支払いを請求しうるもので、その支払いと引換えに銀行は手形を割引依頼人に交付する義務を負うのである。
以上によれば、手形買戻代金請求権の法律上の性質は、手形法外の権利であつて、停止条件付債権とみることができる。その成立の基礎は手形割引のときに存する。すなわち手形割引に附随してなされるところの、当該手形が満期に不渡りになればこれをもつて偶成条件の成就とし、また満期前においても割引依頼人に一定の信用悪化の事由の発生と銀行の買戻請求という意思通知がなされることを混成条件の成就とする、割引手形の停止条件付売買契約が手形買戻代金請求権の取得の原因であり、右偶成条件、又は混成条件が成就すれば割引手形の売買契約は効力を生じ、割引依頼人は銀行に対し手形と引換えに手形面記載の金額(不渡り手形については利息を加算)の支払義務を負うのである(手形買戻請求権の法律上の性質や構成については、手形法上の遡及権類似の請求権説、債権の売主の担保責任説、銀行を権利者とする解除権の設定説、もしくは再売買一方の予約説等、が考えられるが、いずれにせよ買戻請求権の二種の区別は具体の手形についての権利発生の既然の姿における区別であり、その基礎である成立の根拠においては未然のことに属する。手形買戻代金請求権として両者は統一的に理解することが可能であり、また必要であろう。)。
本件において破産会社が右のごとき手形買戻請求権を特約によつて成立させたことを認める証拠はないが、かような事実たる慣習が存する以上、取引当事者は特に反対の意思表示をしないかぎり、この事実たる慣習に従う意思を有したものと認めるべきであり、本件においては特に反対の意思表示をしたと認める証拠はない。したがつて被控訴銀行は右手形買戻請求権を有するものと認められる。
(二) 破産法第一〇四条第三号本文ならびに但書の法意
相殺は、債務者が債権を有する場合における最も簡便な債務免脱の方法であり、当事者はいつでも相殺によつてその債務関係を決済できる利益を約束されつつ相互の取引関係を持続するものである。しかるに、相手方が突然破産したからといつて、自己の債務は破産財団に完全に弁済させられ、債権については僅少な割合分配に甘んじさせられるのでは、当事者間に甚しい不均衡を生じる。そこで破産法は一面において破産債権者の相殺権を通常の場合に比し拡張して認めることにしたが(破産法第九八条、第九九条)、それとともに他面においては、破産という異常事態に対応するため第一〇四条をもつて相殺権の制限をはかつた。その制限の法意は、相殺権のごとき別除権以上に強大な優先的満足をもたらす権利が、ある債権者に債務者の破産宣告後もしくはその危険時期において新たに設定せられることによつて総債権者間の公平という破産的清算の理想が破られることのないように、通常の場合に比し相殺権の要件について時期的に厳格性を要求し、もつて一定の時期以後における債権債務の対立状態の設定作出による相殺権の濫用を防がんとするにほかならない。ことに第一〇四条第三号は、支払停止や破産申立てまで自働債権の取得時期の制限を遡らせている。それらは債務者が経済的危機にあることの外部的徴表であるから、そのことを知つて実価の下落した債権を取得しもつて債権債務の対立状態を新設した破産債権者に、対等の名目額で財団に対する債務を免れさせるのは、やはり公平に反することが明らかであるからである。この禁止は他人の破産債権を取得した場合にかぎらず破産者との間の取引で新たに債権を取得した場合をも包含するのであるが、この禁止制限を文字どおり貫くと、破産債権者に酷になるから、第三号但書をもつて、その取得が自己の意思でなく、法定の原因(相続、不当利得)に基づくとき、支払停止又は破産申立のあつたことを知つたときより以前に生じた原因に基づくとき等は除外することにしたのである。債務者は危機状態にあるとはいえ、いまだ破産宣告のなされていない時期においてのことであり、前者の場合は、その債権の取得に自己の意思の介入する余地は全くないのであるから、債権者間の公平を犠牲にしても当事者間の均衡を尊重するのは極めて当然であるし、後者の場合も、債権の取得の基礎は実価下落の以前にあることを要求されているのであるから、債権の価値下落を奇貨としての債権の取得をはかつたものということをえないとすると、やはり、一般原則に立ち返つて当事者間の均衡の視点から相殺を許容するのを至当とするのである。この後者の除外例たるためには、その債権の成立原因が、支払停止又は破産の申立てという危機到来以前にそなわるものであれば、その効力の発生が危機以後に属する、たとえば条件付債権であつてもよいことについては異論のないところである。
(三) 本件手形買戻請求権による相殺の効力
そうすると、本件被控訴銀行が相殺の用に供した金一五万円の手形買戻代金請求権は破産会社に支払停止という信用悪化事由の発生した後に、これを知りつつ昭和三二年四月八日被控訴銀行において買戻請求の意思を表示したときに被控訴銀行において取得した破産債権である(これと反対の見解のもとに破産法第一〇四条三号本文の制限に触れないとする被控訴人の主張はあたらない。)ことは明らかであるが、右買戻代金請求権の基礎は右破産会社の支払停止後にはじめて生じたものでなく、それ以前の本件手形を割引いた昭和三二年二月二二日にあることも明らかであるから、買戻代金請求権取得は、支払いの停止があつたことを被控訴銀行が知つたときより前に生じた原因に基づくものとして、破産法第一〇四条第三号但書によりその本文の相殺権の制限を免れるものというべきである。
以上と異なる見解のもとになす控訴人の主張には従いえない。その理由は既述によつて明らかであると思うのであるが、なお少しく補足を加える。
控訴人は買戻し事由としては、乙第二号証の第八条の列挙する「当方、連帯保証人、又は手形関係人について次の各号の一に該当する場合には、なんらの催告その他の手続を要しないで、当方が貴行に対して負担する一切の債務の弁済期が到来したものとして、即時債務の全額を支払います。
一、この約定その他の諸約定に違背し又は貴行に対する債務のうちその一でも履行を怠つた場合
二、差押、差押命令申請、競売の申立、仮差押命令申請、仮処分命令申請、破産宣告の申立、和議開始の申立、会社整理の申立、又は会社更生手続開始の申立があつた場合
三、手形交換所の警戒、不渡又はその他の処分を受けた場合
四、債務の履行遅怠、支払停止、支払不能その他不信用の行為があつた場合
五、前各号の事態の発生するおそれがあると貴行において認められた場合」
というがごときは極めて漠然としており、かつ銀行の裁量の余地が多いから、これらを停止条件と解することは法律関係の安定性を害すると主張する。たしかに右列挙事由のすべてを買戻しの事由すなわち停止条件の成就とみることには問題があろう。たとえば、係争物や係争権利関係についての仮処分の申請や仮処分命令の発付のごときは必ずしも信用に関するものではないのであるから、これだけをもつて債務者の信用悪化の事態とみることは許されないが、そのことはなんら手形買戻代金請求権を停止条件付債権と考えることの妨げとはならない。銀行側に裁量の余地のあることがその妨げとならないことは自明というべきである。要は、具体の場合に買戻事由として合理性と相当性のある事由が発生しなければ手形買戻債権の基礎たる停止条件付売買契約の条件は成就せず契約は効力を生じないとすれば足りるのである。支払停止は信用悪化の事由として正に典型的なもの、これを買戻代金請求権の条件成就とするのは当然以外のなにものでもない。条件付法律行為の条件の成否未定の間において法律関係が不安定であることは当然であり、そのことのゆえに、手形買戻請求権を条件付債権と解すべからずとする理はない。
控訴人は手形買戻請求権は手形外の権利であるから、破産法第一〇四条第三号但書に該当しないと主張するが、同但書は、債権の成立、発生の根拠が、手形法その他法律の規定に基づくか契約に基づくかによつてなんらの区別を設けていないし、区別する理由も見出だしえない。
控訴人は、さらに、債権成立の原因たる特約が当事者間において経済的危機の発生を予測前提して設定された場合には、破産法第一〇四条第三号の但書に、該当しない、また、かかる特約は実質的には銀行預金をして担保的機能を営ましめることを目的とするものであるが、担保権の対第三者への明確化の要請上、右特約は破産手続においては通用しないと主張する。しかしながら、右法条の法意、第三号の本文ならびに但書の趣旨はすでに述べたとおりであり、要約すれば、破産債権者の相殺権の乱用を防止しつつ、対第三者関係、一般債権者間の公平よりも当事者間の利害の均衡を尊重し、相殺権の担保的機能を妥当な範囲において是認せんとするにある。そして同条は危機以後における債権の取得が単に法定の原因に基つくときのみならず、当事者間の契約に基づくときもこれを許容し、たゞ契約に基づくものであるときは、その契約が支払停止や破産の申立てがあつたことを知る以前に締結されたものであることの要件を附加することによつて、予測される弊害の防止は十分であるとし、その要件のそなわるかぎり相殺権の取得を正当としたのである。ひとり、手形買戻代金請求権について、その成立の基礎たる買戻しの特約ならびにその効力発生の要件に制限を加えて、これを除外することを至当とする合理的根拠と必要は全然存しない。以上と異なる控訴人の主張は採用できない。
そうすると、被控訴銀行が本件一五万円の手形買戻代金債権を自働債権として昭和三二年四月八日にした相殺権の行使は適法有効であつて(なお、手形買戻代金の支払いと当該手形の返還とは同時履行の関係に立つが、前記乙第二号証によれば、破産会社は右抗弁権を拠棄していることが認められる。)、被控訴銀行の破産会社に対する本件元金一五万円の定期預金債務は対当額すなわち全額について消滅したものといわなければならない。
四、否認権の主張について
被控訴銀行が破産会社の支払停止である昭和三二年三月九日本件元金一五万円の定期預金ほか二口の定期預金を本件手形による金融によつて破産会社の負担する債務の担保に差し入れさせたことは当事者間に争いがない。しかしながら、前記相殺権は、右担保差入れによつて被控訴銀行の取得したものでなく、破産法の許容する権利であつて、それとは無関係のものである。しかして、本件相殺は破産会社がしたものではなく破産会社の相手方である被控訴銀行の相殺という一方的意思表示があるだけであり、破産者の債務消滅に関する行為というものはないのであるが、破産法第七五条が執行行為に基づくものをも否認しうることを規定しているので、その対比上、受働的相殺による破産者の債務消滅も問題とされうるとしても、破産法の許容する相殺であるかぎり、否認権の対象から除外されるものと解するのが相当である。なお、仮に右買戻しの特約が本件支払停止後に締結されたとすれば、その特約は破産法第七二条第二号の否認の対象にもなり、相殺禁止の制限に触れることにもなろうが、本件はこのような事案ではない。控訴人の主張は採用できない。
五、結論
そうすると、本訴請求は失当として棄却すべく、これと結論を同じくする原判決は結局正当である。
よつて民事訴訟法第三八四条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 平峯隆 裁判官 北後陽三 裁判官 大江健次郎)